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これまでのうづほ1

うづほ

2022年7月1日

現在のうづほに至るまでの略歴

【生まれてから、おりこうな自分が死ぬまで】


東北のド田舎で生まれる。


幼少期、泣き虫で引っ込み思案だったが、おりこうさんだったため、保育園時代は少し先生たちにひいき目に扱われていた。


全校生徒30人程度の小学校に入学。

周りの男の子がやんちゃすぎて、大体の女子は図工の作品を壊されたり、上履きに画びょうが入ってるのを経験する。


可愛い子よりおもしろい子でいる方が生きやすい環境だったため、ノートにTRPG的な世界を描いて友達と遊んだり、漫画を描いて過ごす。

小3あたりで一人称が「俺」になる。


小5の時学校が統廃合となり、2クラス以上の学校というものを知る。

男子がみんなやんちゃだというわけではないことも知る。

成績がよく、先生から怒られることもほとんどなかった。


中学1年地元の中学に入るが、また統廃合で2年生からはやや大きい学校に入り、最初の一年は友達は特に作ろうとせず、ノートに絵を描くことに没頭して担任に心配される。


3年生で気の合う子たちと同じクラスになり、けいおん!にはまる。

声優やアニソン歌手ブームに影響され、台本読みをしたり、カラオケに行ったりすることに夢中になった。


友達は声優になりたい子が多かった。私は、歌を歌う方に興味が出たので、自分で作詞作曲編曲ができる女性アーティストになりたいと思った。ちなみにそれまでは漫画家になりたいと思っていた。


どっちの道も捨てがたく、また、勉強の成績も良かったため、進学校に受験することを決めた。大人がよく言う、いいとこに入ってれば視野が広がるし選択肢も広がるという言葉を安直に信じた。


中3の秋、文化祭に行う校内の合唱コンクールの伴奏を頼まれた。ピアノを習っていたが、伴奏できると思っていないし、何より歌いたいし、同時期にピアノ教室の発表会があったため、断ったのだが、クラスにいるもう一人ピアノを弾ける子が不登校ぎみだったので、強制的に私が弾く羽目になった。


文化祭には友達同士でバンドを組んで演奏しようと夏から準備していた。


受験が近い中、合唱コンの2曲+発表会の曲(当時挑戦したかったジャズ)+バンドの曲を練習しないといけなくて、明らかにキャパオーバーだった。全部本番までに完成させるのは無理だと思った。当時何でもこなしていた私は、周りからやり遂げると信頼されていた。


結果は当時の私にはあまりにも受け入れがたいものだった。

合唱コンクールの課題曲2曲はぎりぎり間に合ったが、バンドの方は頭の固い校長から禁止命令がでた。

練習することがたまり場になってトラブルが起きるのを防ぐため。実際バンドを組んでたのはオタクグループだけだったのに。演奏することができなかった。


発表会で弾きたかったジャズは、間に合わず、発表会を辞退することになった。


やりたかったことができず、やりたくなかったことに犠牲になるのは当時失敗しらずの私にはあまりにも苦痛だった。


受験勉強にも身が入らなくなっていた。模試の点数が徐々に下がっているのを、私だけが気づいていた。

誰も、失敗すると思っていない、調子が悪いことに気づいていない。

私もどうか、誰にも気づかれないままことが終わってほしいと思っていた。

もう限界であったことは自覚できなかった。


受験は前期後期とチャンスが2回あった時期なので、前期落ちてしまったが、後期運よく合格できた。

それでも、前期落ちたことは大きな挫折を味わった。


入学したらみんなスタートラインは一緒とどこかのアホが言っていたが、後期試験で受かった子は1週間ほど入学前の課題を受け取る日が遅れる。とても、短期間でできる量じゃなかった。しかも入学直後には学力テストが待っている。


休む間がなかった。


進学校に入学してからも、見たことのないスピードで授業が進んだ。課題も恐ろしい量だった。

いつ絵を描くんだ?いつ作曲をするんだ?

全部こなすことがもうできないと、嫌いなものから手放していった。

数学の授業をきくのをやめた。英語の課題をしてくるのをやめた。移動教室に向かうのをやめた。グループワークで声を出すのをやめた。

徐々にやりたかったことさえ、私が周りには見向きもされてないことを知ると、手放していった。

大好きだった絵を描くこと。絵を描く自分は誰も見てくれなかったから、描く頻度は減った。


軽音部に入った。今度こそギターを弾いて歌いたかった。でも入れてもらえたバンドにはもうギターが3人いた。しぶしぶキーボードになった。合唱コンのトラウマで片手しか指を動かせなかった。でも、いてもいなくてもよかったから技術は求められなかった。


キーボードのいないバンドのコピーをやらされた。ボーカルにはなれなかった。


リーダーがオリジナル曲を持ってきて演奏するようになったので、私もとオリジナルをみんなに聞かせた。楽譜まで書いたが、結局演奏してもらえなかった。今思えば、コードだけ書いて、自由にひかせれば良かったのだが、当時の私は自分の編曲を再現してほしかった。


1曲だけボーカルとギターを任せてもらえる曲があった。中学時代に練習していたけいおん!の「ふわふわ時間」だった。ハモリを知ってるからという理由で、あとルックスでギターなのに澪パートのボーカルを任せられた。ほんとは唯パートやってたんだけど、私の声がかわいいことなど誰も気づいていない。バンドの中で一番ふわふわしたキャラの子が唯パートに抜擢された。


軽音部は2年の時にやめた。ラストライブに「ふわふわ時間」を最後に演奏させてもらった、「最後なので、うづほに歌ってもらいます!」のコールのあとに、わたしは端に立ち、私でないメンバーがステージの中心でマイクを握っている様は、対バン相手も違和感にざわついていた。


音楽に罪はないが、屈辱的な時間であったことで、演奏することはいまだに良いイメージを持てないままだ。


学校に居場所を感じられなかったため、不登校になった。

勉強は一切やらなくなっていた。

親は意地でも連れて行こうと、たたき起こして車に乗せ学校の前まで送った。降りられない日もあった。

何かがとりついたと思われて、寺に連れていかれた。特に霊は憑いてないですと言われても、ほかをあたって巫女さんや霊媒師のところへ連れていかれた。

一応精神科にも連れて行ってもらったが、うつ状態だと言われても両親が薬の依存性を怖がって、投薬を拒否した。妥協点で漢方専門の内科に処方してもらうことでうつ治療を進めることになった。


担任のすすめで来年度まで休んだ方がいいと、休学と留年が決定した。

とにかく、勉強を課せられないことに安心はした。

もう中学生までの「勉強ができて絵も描けるなんでもお利口にできる自分」に戻ることはできないんだと悟った。

何を恨むべきかわからなかった。お利口な自分は限界が来て死んでしまったんだと思うしかなかった。


続きはまた書きます。

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